希望の明日へ

 

「希望の明日へ」 という池田先生の本より 引用します。

 

以下

 

p358

 

信仰は 義務ではない。幸福になるための権利である。

 

 幸福は 自分で勝ち取るものである。

 

 安閑(あんかん)とした人生のなかでつかむことはできない。

 

 押し寄せる風波と戦うなかで、獲得する以外にない。

 

  ゆえに強く、あくまでも強くなければ、幸福への道を進むことはできない。

 

 いわば波瀾万丈の人生で 勝利した分だけ、偉大なる幸福は 築かれていくのである。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

p359

 

 要は、「みじめに負けるよりも 、晴ればれと勝つ人生を」ということである。

 

  心と一念が負ければ、勝負は おしまいである。

 

   あきらめは 幸福の死である。

 

  「断じて勝つ!」 その根性のある人が、最後の勝者である。

 

    華やかな名声も、 位も、富も、それだけでは、 表面を着飾っただけである。

 

  ほかならぬ自分自身が 病み苦しんでいては、どんな衣装をつけても 

 

 幸せとはいえない。

 

  当然の道理である。 はつらつたる健康な生命、愉快な、生き生きと、満ち足りた心

 

ここに幸福の実態がある。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

どんな状況にあっても、「楽しみ」をつくっていける

 

   その人こそ、幸福である。

 

そうなれるための信仰である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

仏典に 「人のために灯をともせば、 自分の前も明るくなる」とある。

 

他の人のために、 生命の火を燃やしていけば、 自分も温かくなり

 

 明るくなっていく。

 

 内面から 輝いてくる。

 

 その人が 教養のある人である。

 

幸せな人である。

 

 死や老いを前にしても、

 

たじろがない勇気をもてる人である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

p360

 

 人生は劇である。 劇には喜劇と悲劇がある。

 

 その定義は、 どう違うのか。 それはいたって明快である。

 

  結末が幸福なら 喜劇、結末が不幸なら悲劇と。

 

大変わかりやすい。

 

 途中は関係ないのである。

 

  人生もまた、結末いかんで 悲劇にもなれば 喜劇にもなる。

 

人生の途中の姿だけを見て、うらやましがったり、反対にバカにしたりする。

 

  それでは 、人生の真実は わからない。

 

   たとえ途中が 、良いように見えても、 最後にどうなるかわからない。

 

  その 最終の勝利のための信仰である。

 

 

 

 

  

 

11・18創価学会の記念日

 

 

あと  1時間で 2018年 11月18日です!

 

創価学会創立の日 で 創立88周年の記念日です。

 

1988年 (今から 30年前の本)

 

 「人間と仏法を語る2」 池田先生の本

 176Pに (悔いなき満足の生き方を)

 

 を読んで 感動

 今回は これを 引用します!

 

以下

 

 「悔いなき満足の生き方を」         昭和62年4月2日 創価学会新館

 

 恩師 戸田第二代会長は、 よく 「人生はカケのようなものだ」

といわれていた。

 

 言葉は適当ではないかも しれないが 、人生の本質をとらえた見方であると思う。

 

  人生は無常である。 たとえ 現在が幸せであっても、それが永遠に続くという

ものでもない。

 

 不幸や苦悩もまた 永続するわけではない。

 

人間の心は、 瞬間 瞬間 に変化していくし、人間の一生も、流転、変化が現実の姿である。

 

 常住の幸福境涯は なかなか得られるものでもない。

 

その意味で、戸田先生がいわれる通り、幸福の人生を築けるかどうかは「カケ」であるといってよい。

 

生死(しょうじ)の海の、波の間に間にただような人生にあって、

 どう永遠に崩れることのない 幸福を確立していくか。

  

 これが 人生の最大の課題である。

 

  その解決は 結論していえば、常住不変の法である妙法にのっとって生きる以外にない。

 

  これが日蓮大聖人の教えである。

 

当然、人生の途上において、勝ち負けはある。

 しかし、それらは一時の勝ち負けである。

 

 それに 一喜一憂する必要はない。

何があっても、 淡々とまた悠々と生き抜いていただきたい。

 

御本尊とともに 広布と信心に生きゆく人生には、必ず正々堂々、

 

 真実の幸福が到来することを 確信されたい。

  大事なことは、 それぞれの人生にあって 「私はこれで満足だ。まったく悔いがない。」

 

 といえる生き方をしているかどうかである。 ここに人生は 「カケ」

といわれた深い意味がる。

 

若いうちから 目先の幸福や 功徳のみを 追う生き方では、あまりにもはかない。

 

世間的虚栄や華やかさで 自分を飾っても、メッキのような 幸福にすぎない場合がある。

 

 大聖人の仏法は 諸法実相、凡夫即極(ぼんぷそくごく) 無作三身(むささんじん)

 

 と教えられている。 その仏法を 持つ(たも)私どもも、総じて

 

 、ありのままの姿で使命に生き抜き、成仏していくことが正し

い。

 

 また私どもはみな同志であり、妙法の家族である。

 

    そして、だれもがかけがえのない仏子である。

お互いに尊敬し、 守りあっていくべきである。

 

 見栄をはりあったり、世法の次元で 競いあったりすることは 仏法の精神ではない。

 

どこまでも 平等大慧(だいえ)の仏法である。

 たとえ 社会的には 地味であり恵まれない存在であっても、

 

 慈悲の心をもち、 けなげに法を弘めている人をこそ、

 

 最大限に大切にしていかねばならない。

 

 また、 その人を御本尊が 厳然と守らないはずがない。

 

このことを確信し、 一生涯、うるわしき 妙法の姉妹として、どこまでも

 

仲良く生きぬいていっていただきたい。